- 個性豊かな天守の「超」技術 - 講談社ブルーバックス、2017年11月刊
著者は、小学校2年のときに松本城で、「城」の美しさに魅せられました。青山学院大学を出て、広告代理店などに勤務しながら全国の城を巡り、調査・研究して独立しました。現在は、フリーの城郭ライター、編集者として活動し、イベントの実行委員長もこなします。
近年、城巡りの人々が激増しています。その多くの人が目指すのは、やはり天守でしょう。個性的で圧倒的な存在感に魅了されるのです。城には長い歴史がありますが、最初に天守をつくったのは織田信長でした。天正6年(1576)に築いた安土城です。城全体を高い石垣で囲み、その上に絢爛豪華な高層建築を建てました。5重6階地下1階で、天主と呼びました。それまで戦うためだった城を、権威の象徴としたのです。信長の城の概念は、秀吉、家康へと引き継がれました。秀吉の大坂城には、安土城を凌駕する威圧感がありました。大名たちの築城技術は、文禄・慶長の朝鮮出兵を契機として、さらに磨かれてゆきます。
関ヶ原合戦で、国内に緊張感が高まると、空前の築城ブームが到来しました。近世の代表的な城は、ほとんどこの時期のものです。徳川の城が、大坂包囲網をつくったのです。姫路城の大改修、彦根城の新築に、総仕上げは名古屋城でした。いずれも実戦的で、かつ家康の威光を見せつけましたが、慶長20年(1615)の一国一城令で、築城ブームは終わります。
また明治維新の廃城令、大戦による空襲で多くが消失し、天守がそのまま現存する城は、姫路城、松本城、彦根城、松江城、犬山城、弘前城、丸岡城、備中松山城、松山城、丸亀城、宇和島城、高知城の12です。そこで最近は、天守の復興・復元が盛んになってきました。
天守は、日本の伝統的な木造建築です。やはり「基礎」が最も重要で、姫路城では岩盤上を「版築」で固めています。それでも建造中に天守の重量にために地盤沈下が起こり、一番目の軒に「方杖」を挿入して修理しました。地盤の軟弱な松本城では、長さ約5mの栂材の杭が16本も打ち込まれていました。「礎石」は必須で、その上に土台をおき柱を立てます。材質は、松、檜、栂などさまざまですが、名古屋城と江戸城だけは木曽檜でした。檜はすでに貴重品だったのです。築城は緊急工事ですので、古材を転用した例もありました。
天守は建築上、「望楼型」と「層塔型」に分かれます。前者は初期のもので、建物を順次重ねて望楼を載せ、後者は、最初からタワーを組み上げています。徳川以降がこれでした。天守の柱は、8寸から1尺5寸角の太さがありました。通 し柱でも特に太い「心柱」は、姫路城で地階から6階まで2本が貫いています。太さ3尺、長さ80尺(約24m)、樅の一本造りで有名です。天守の内部構造には、「筋違い」や「貫」、「継ぎ」などの工夫があり、外観の美しさには、屋根や瓦、「破風」の形、「格子窓」、「狭間」、「下見板」、「回縁や高欄」などに個性がありました。姫路城の外壁や瓦の「漆喰」は、消石灰、貝灰、にスサ(繊維)、を混ぜて、海藻糊で固めてあります。松本城の漆黒の天守の美しさも格別です。その技術を伝えた人たちの物語がありました。天守は、防御設備にも多くの工夫が凝らされています。
著者は、個々の城について、詳細に解説しています。まるで城大工で修業したようでした。独学で、ここまでやるとは驚くばかりです。城の魅力をたっぷりと教えてくれました。「了」